Se connecter七月に入り、薔薇の最盛期が過ぎると、庭は少し静かになった。
花の数は減り、葉が濃い緑色に変わっていく。でも、その静けさにも独特の美しさがあった。
胡蝶は、薔薇園の四季を全て記録しようと決めた。春の華やかさだけでなく、夏の深い緑、秋の実り、そして冬の眠りまで。
「季節によって、庭の表情が全く違うの」
胡蝶はカメラのファインダーを覗きながら言った。
「この変化も、記憶の一部として残したい」
紬の刺繍も、順調に進んでいた。
すでに十五種類の薔薇が完成し、それぞれが驚くほどの完成度だった。でも、紬は満足していなかった。
「まだ足りないの」
ある日、紬は悩ましげに言った。
「個々の薔薇は刺繍できた。でも、庭全体の雰囲気を表現する大作も作りたい」
「大作?」
「うん。すべての薔薇が一つの布に咲いている、庭園の風景を刺繍したいの」
それは途方もない計画だった。
一つの薔薇を刺繍するのに一週間かかる。庭全体を表現するとなれば、数ヶ月では足りないだろう。
「時間が足りないわ」
マリアンヌが心配そうに言った。
「十二月までに完成させるのは、無理があるんじゃない?」
「でも、やりたいんです」
紬の目には、強い決意の光があった。
「この庭の本当の美しさは、個々の薔薇だけじゃない。全体の調和、光と影のバランス、空気の流れ……そういう全てを含めて、薔薇園なんです」
マリアンヌは深く頷いた。
「分かったわ。じゃあ、一緒に頑張りましょう」
それから、紬の生活は刺繍一色になった。
朝は早く起きて、登校前に一時間刺繍する。昼休みも、放課後も、全ての時間を刺繍に費やした。
「紬さん、大丈夫?」
ひかりが心配そうに声をかけてきた。
「最近、ずっと疲れてるみたいだけど」
「大丈夫」
紬は笑顔を作った。
「やらなきゃいけないことがあ
七月に入り、薔薇の最盛期が過ぎると、庭は少し静かになった。 花の数は減り、葉が濃い緑色に変わっていく。でも、その静けさにも独特の美しさがあった。 胡蝶は、薔薇園の四季を全て記録しようと決めた。春の華やかさだけでなく、夏の深い緑、秋の実り、そして冬の眠りまで。「季節によって、庭の表情が全く違うの」 胡蝶はカメラのファインダーを覗きながら言った。「この変化も、記憶の一部として残したい」 紬の刺繍も、順調に進んでいた。 すでに十五種類の薔薇が完成し、それぞれが驚くほどの完成度だった。でも、紬は満足していなかった。「まだ足りないの」 ある日、紬は悩ましげに言った。「個々の薔薇は刺繍できた。でも、庭全体の雰囲気を表現する大作も作りたい」「大作?」「うん。すべての薔薇が一つの布に咲いている、庭園の風景を刺繍したいの」 それは途方もない計画だった。 一つの薔薇を刺繍するのに一週間かかる。庭全体を表現するとなれば、数ヶ月では足りないだろう。「時間が足りないわ」 マリアンヌが心配そうに言った。「十二月までに完成させるのは、無理があるんじゃない?」「でも、やりたいんです」 紬の目には、強い決意の光があった。「この庭の本当の美しさは、個々の薔薇だけじゃない。全体の調和、光と影のバランス、空気の流れ……そういう全てを含めて、薔薇園なんです」 マリアンヌは深く頷いた。「分かったわ。じゃあ、一緒に頑張りましょう」 それから、紬の生活は刺繍一色になった。 朝は早く起きて、登校前に一時間刺繍する。昼休みも、放課後も、全ての時間を刺繍に費やした。「紬さん、大丈夫?」 ひかりが心配そうに声をかけてきた。「最近、ずっと疲れてるみたいだけど」「大丈夫」 紬は笑顔を作った。「やらなきゃいけないことがあ
月曜日の朝、胡蝶は教室で紬の姿を探した。 いつもの席に紬はいたが、何かが違った。大きな眼鏡の奥の瞳が、いつもより輝いている。背筋もピンと伸びていて、まるで何かを決意した人のような雰囲気があった。「おはよう、紬さん」 胡蝶が声をかけると、紬は顔を上げて微笑んだ。「おはよう、胡蝶さん。あのね、昨日からずっと考えてたの」「薔薇園のこと?」「うん。どうやって刺繍で残すか、構想を練ってた」 紬はノートを開いて見せた。そこには薔薇園の簡単な見取り図と、様々な薔薇の名前が書き込まれていた。「全部で三十二種類の薔薇があるの。それぞれの特徴を刺繍で表現したい」「すごい……もう調べたんだ」「マリアンヌさんから薔薇のリストをもらったの。それに、刺繍の技法も勉強しなきゃ」 紬の熱意に、胡蝶も心が動いた。「私も何かしたい。写真を撮るのはどう? 記録として残せるし」「それいいね! 私が刺繍するときの参考にもなる」 昼休み、二人は図書室に行った。 刺繍に関する本を探すためだ。古い手芸の本から、現代の刺繍アートの写真集まで、関連する資料を次々と借りた。「見て、これ」 紬が一冊の本を開いた。 それは十九世紀のフランス刺繍の技法書だった。精緻なイラストとともに、様々なステッチの方法が解説されている。「サテンステッチは、光沢のある糸を使って花びらの滑らかさを表現するの。ロング&ショートステッチは、色の濃淡を自然に繋げることができる」 紬は興奮した様子で説明した。「フレンチノットは小さな結び目を作って、花の中心や蕾を表現するの。それから……」 胡蝶は紬の横顔を見つめていた。 こんなに生き生きと話す紬を見るのは初めてだった。普段は教室の隅で静かにしている彼女が、刺繍のことになると別人のように輝く。「紬さん、刺繍が本当に好きなんだね」 胡蝶の言葉に、紬は少し照れくさそうに頷いた。「うん。小さい頃からずっと好きだった。でも、誰にも言えなくて」「どうして?」「だって……地味でしょう? 刺繍なんて、おばあちゃんの趣味みたいで」 紬は自嘲的に笑った。「クラスのみんなは、もっとキラキラしたことに興味があるから。私みたいに、糸と針で地道な作業をするなんて、変わってるって思われそうで」「そんなことない」 胡蝶は強く言った。「紬さんの刺繍は、本当に美しい。
翌週の土曜日、胡蝶は朝から薔薇園を訪れた。 いつもより早い時間で、朝露がまだ花びらの上で宝石のように輝いている。空気は冷たく澄んでいて、薔薇の香りがより鮮明に感じられた。 門をくぐると、マリアンヌがすでに庭で作業をしていた。麦わら帽子を被り、古いエプロンをつけて、丁寧に雑草を抜いている。「おはようございます、マリアンヌさん」「あら、胡蝶さん。今日は早いのね」 マリアンヌは立ち上がり、腰に手を当てて微笑んだ。「お手伝いさせてください。私にもできることがあれば」「まあ、嬉しいわ。じゃあ、一緒に水やりをしましょうか」 二人は古いブリキのジョウロに水を汲み、薔薇の根元に丁寧に注いでいった。 朝の光の中で、庭園はまた違った表情を見せていた。蜘蛛の巣に朝露が付いて、銀色の糸のように光っている。鳥たちが枝から枝へと飛び移り、楽しげにさえずっていた。「マリアンヌさん、この庭はいつからあるんですか?」 胡蝶は水やりをしながら尋ねた。「そうね……この洋館が建てられたのは、今から八十年ほど前よ」 マリアンヌは遠い目をして言った。「建てたのはフランス人の実業家、ジャン=ピエール・ローレンス。私の夫の祖父にあたる人よ」「ご主人の……?」「ええ。私は若い頃、このローレンス家の庭師として雇われたの。当時、私は二十歳で、薔薇の栽培について学んでいた」 マリアンヌは一つの薔薇の前で立ち止まった。深紅の大輪の薔薇だ。「そして、ここで働いているうちに、ローレンス家の息子――アンリと恋に落ちたの」 その言葉に、胡蝶の心臓が高鳴った。まるで古い恋愛小説の一場面のようだった。「アンリは音楽家でね。ピアノを弾くのが上手だった。この洋館のサロンで、よく演奏会を開いていたのよ」 マリアンヌの瞳が、記憶の中を泳いでいる。「私が庭で薔薇の世話をしていると、窓からアンリのピアノの音が聞こえてきた。ショパン、ドビュッシー、ラヴェル……美しい旋律が薔薇の香りと混ざり合って、まるで夢の中にいるようだった」「素敵ですね」 胡蝶は心から感動して言った。「でも、幸せは長くは続かなかったの」 マリアンヌの声が少し震えた。「戦争が始まったのよ。アンリは出征し、二度と帰ってこなかった」「マリアンヌさん……」「それから私は、ずっとこの庭を守り続けてきたの。アンリが愛した薔薇を、枯
五月の朝は、いつも光の粒子が見えるような気がする。 御厨胡蝶は通学路の途中で立ち止まり、街路樹の葉を透過する陽射しを見上げた。新緑の葉は光を受けて、まるで薄い翡翠のステンドグラスのように輝いている。その美しさに心を奪われて、胡蝶は思わず息を呑んだ。 美しいものを見ると、胡蝶の心臓は少しだけ早く鳴る。それは恋に似ているけれど、もっと純粋で、もっと儚い感覚だった。「胡蝶ちゃん、また止まってる」 親友の声に我に返る。振り向くと、ショートカットの少女――柚木ひかりが、呆れたような笑顔でこちらを見ていた。「ごめん。でも見て、この光……まるで宝石みたいでしょう?」「うん、綺麗だね。でも毎朝これだと遅刻しちゃうよ」 ひかりは実際的で、地に足のついた少女だった。胡蝶とは小学校からの付き合いで、夢見がちな胡蝶をいつも現実に引き戻してくれる。 二人は桜丘高等学校の二年生だ。この街は郊外の静かな住宅地で、古い洋館や昔ながらの商店街が残る、どこか懐かしい雰囲気を持っていた。 教室に着くと、胡蝶は窓際の席に座り、鞄からスケッチブックを取り出した。授業が始まるまでの僅かな時間、彼女は今朝見た光の粒子を描こうとする。でも、どうしても上手く表現できない。 美しいものを見つけることは得意だけれど、それを形にすることは難しかった。「おはよう、胡蝶さん」 声をかけてきたのは、クラスメイトの遠山紬だった。地味な印象の少女で、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる。長い黒髪を三つ編みにして、大きな眼鏡をかけていた。「おはよう、紬さん」 胡蝶は微笑んで答えた。紬は少し照れたように頷き、自分の席へと向かう。 実のところ、胡蝶は紬のことをほとんど知らなかった。同じクラスになってもう二ヶ月が経つのに、会話らしい会話をしたことがない。紬はいつも一人で、誰とも深く関わろうとしない印象があった。 午前中の授業は退屈だった。数学の公式も、英語の構文も、胡蝶の心には響かない。彼女の頭の中は、常に「美しいもの」のことでいっぱいだった。 パリのオペラ座の天井画。ロンドンの古書店の佇まい。プラハの石畳に反射する雨粒。胡蝶は世界中の美しい場所の写真を集めていた。いつか、そんな場所に行きたいと思っている。 昼休み、ひかり